ひまわりブログ
まいど!ひまわりブログをやらしてもらってます。格闘技好きのRです。
僕のブログがこれで12本目です。
今回も皆さん、暖かい目で見てもらえたら嬉しいです。今回はK-1の武尊選手について紹介していきたいと思います。
「新生K-1界のカリスマ」とも言われるほどの選手です。
よろしくお願いします。
まず初めに武尊選手は1991年7月29日に
鳥取県米子市で生まれました。
本名は 世川 武尊(せがわ たける)
K-1 GYM SAGAMI-ONO KRESTに所属しています。活動内容はK-1選手とYouTubeをしています。身長168㎝体重60㎏のキックボクシングの選手です。
成績は41戦40勝1敗です。
那須川天心選手とやりたいと言ってからは負けてないそうです。
入場曲はTOUCHIN ON MYです。
この曲は武尊選手にピッタリの入場曲と思います。個人的にラスボス感みたいな感じの入場だと思ったからです。笑
武尊選手の生い立ちについて
武尊選手は幼い頃は泣き虫で「泣き虫たけちゃんと呼ばれていました。」
小さい頃からプロレスやK-1が大好きだったそうです。特に初代タイガーマスクとアンディ・フグのファンで卒業アルバムの将来の夢には「格闘家」と書いたそうです。小学2年生で空手を習い始めました。そのは厳しい道場で「大切な人を守るために空手を使え」との教えから実践向きの空手を指導していました。
稽古では目潰しや金的、おもちゃのナイフでの実践練習竹刀を受ける稽古など行なっていました。組手では年上の人や180㎝の人を相手にし、倒れても続行させられそのまま攻撃してこられたそうです。厳しすぎますよね〜笑
そのおかげでどう戦えば良いのか考える習慣がついたそうです。しかしそうは言っても道場に行くのは怖いので泣きながら通っていました。中学に入ると始めの頃は9人いた同学年が厳しさに堪えられずに全員辞め武尊選手だけが残りました。
武尊選手は徐々に強くなっていくのが楽しくなっていたそうです。中学ではモテるためにバンドを始め髪を染め、ピアスをあけ少しずつ素行が悪くなっていきます。中学では皆に嫌われる教師がいました。みんなの気持ちを代弁するために武尊選手はその教師の車に石や硬貨で傷つけ当然それはバレてしまい高い修理費を払わされました。武尊選手はかなりモテモテで中学時代だけで13人の女の子と付き合っていました。元彼女から祭りに誘われていくと今まで付き合っていた彼女全員がおり、「彼女を変えすぎて傷ついた」と謝罪を求められ土下座をして謝ったそうです。
中学を卒業しK-1を目指す武尊選手はボクシング部のある高校を選びました。
新入部員はすぐに先輩とスパーリングをさせられ新入りは通常ボコボコにされ大半は辞めていくそうです。しかし、武尊選手は空手の技術を活かし先輩に鼻血を出させ圧倒しました。
顧問はそれを気に食わず「今後しばらくジャブしか打つな」と言い同期がスパーリングしている中サンドバックでジャブしか打たせてもらえなくなりました。
顧問に目をつけられた理由は他にもあり、まず金髪でピアス、そして入部の時に「K-1ファイターを目指している」と言う発言も気に障ったそうです。高校では素行の悪さもエスカレートし、授業中は仲間と悪ふざけし、学校行事のオリエンテーションでは酒を飲み街中では悪さをし補導されてしまいました。
入学1ヶ月で生活指導をしている顧問に呼び出され「お前自分がやってることがわかってるのか?」と胸を小突かれた瞬間頭に血が上り
顧問を突き飛ばしたことで停学処分を食らいました。そんなことを繰り返しているうちに
3度目の停学になり無期限の自宅謹慎になりました。さすがにメンタルが不安定になり寝付けなくなり朝方やっと眠る状態でした。
友人との連絡も禁止され不安を解消するために深夜徘徊し悪い奴らとつるみました。
ある日抜き打ちで教師が家にいるか確認にきましたが日中は寝ていてチャイムに気がつかず
自宅待機を破ったとされ退学処分になりました。
顧問からは「お前はまともな人間じゃない今後真っ当な職につけるなんて思うな。お前は何をやっても絶対に成功しない人間だ。」と言われ「確かにそうかもしれない」と落ち込みました。退学して米子ジムというキックボクシングジムに入会します。入会の時に高校中退のことは聞かれず、それどころかジムには逮捕歴や刺青のあるもの中卒の人がいてみんな親切にしてくれたそうです。
昔は悪かったけど今は更生して立派な大人たちでした。空手は怖かったけどキックボクシングは楽しくて格闘技がますます好きななりました。そして高校に再入学しましたが学校は家から片道1時間半の距離夕方はキックボクシングの練習、土日はフルバイト。毎日が忙しく友人とも遊ばずに少しずつ気づかぬうちに精神が病んできたそうです。それに加えて大会に出るため減量、正しい減量方法など知らず自己流の無茶な方法で食事もほぼ取らず日中も夜もランニング食べては吐くの繰り返しでした。
その頃から笑顔は消え常にイライラし、自分の感情を制御できなくなり、何をしてもつまらなく「俺はなんのためにこんなことをしているんだろう」、「何が楽しくて生きているんだろう」、「もう、自殺しよ」と思い家の屋上から飛び降りようとするのを何度も親に止められ
親に止められるならと思い、海へ行きテトラポットの上から飛び込もうとしましが飛び込めない自分の弱さを呪いコンクリートの壁に何度も頭を打ちつけていると母親が精神科に連れて行ってくれました。
うつ病と診断され、1ヶ月家で安静するように言われました。そして精神安定剤や睡眠薬を飲むようになって自殺願望はなくなったが気持ちのムラは常にありました。ただ学校を辞めたいと言うことだけはありませんでした。
K-1甲子園出場が精神的支柱になっていました。
この頃プリクラにはK-1ファイターになると必ず書きそして魔裟斗選手が出る雑誌やDVDを全て買い彼の言動や立ち振る舞いはプロになってからもお手本でした。高校2年生の時に広島でK-1を初観戦し同じ年のHIROYA選手が
K-1甲子園に出ているのを見て、自分も必ず出ると心に誓いタイへ武者授業に行くことを決意しました。HIROYA選手も魔裟斗選手も過去にタイに修行にいっていたためです。
しかし、渡航費用は30万円かかり当時コンビニで時給600円で働き、土日はフルで入ったがそれでも足りなかったので高校入学の時にバイトして買った原付も売りなんとか30万円貯めることができました。タイでは1ヶ月泊まり込みの合宿でした。40人ほどの選手と住み込みで寝床はジムの2階でタイは蒸し暑いが冷房はなくみんなで雑魚寝でシャワーは使えないので雨水をはったドラム缶の水を浴び飲料水も虫が浮いた桶の水を飲み下痢と嘔吐を繰り返しました。
1日の練習時間は8時間でしんどすぎて3日で帰りたくなったそうです。
しかし、ムエタイの最強王者
アヌワット・ゲーオサムリットからオーバーフックのパンチを学びこの打撃がK-1王者になるために役立ったそうです。そして滞在中
ラジャダムナン・スタジアムで試合に出させてもらい判定では負けたがいい打撃を与えることが出来ていい感触が掴めました。
セコンドについたのは同い年の不可思選手でした。偶然不可思選手も同じジムに修行しにきていたそうです。そしてK-1甲子園出場へ予選で1回戦はKO勝利したが2回戦で判定負けでした。
しかし運営本部へ駆け込みスーパーバイザーの前田憲作氏に「僕の実力はこんなもんじゃないんです。もう一度チャンスを下さい」というと「うちのジムにきたら強くなれるよ。また連絡してきなさい。」と声をかけてくれたそうです。高校卒業が決まり約束通り前田会長に連絡し「チームドラゴンにお世話になりたい」というと快諾してもらいました。
上京してからも精神安定剤は服用しており
飲み忘れると頭痛や動機うつの症状がフラッシュバックしました。しかし6年間かけて徐々に量を減らすなどして薬をやめることができました。そしてジムで同じ目標を持つ仲間たちの存在も大きく特に卜部兄弟は本当の兄弟のような存在です。
卜部兄弟によると「武尊とはナンパも合コンもよくした」、「武尊は脱ぎ癖あって食事の席や打ち上げですっぽんぽんになる」そうです。笑その後Kruchで活躍しているときにK-1が消滅してしまい目標が消え絶望してしまいました。
しかし発想を変え自分が有名になることで格闘技を広めようと思い芸能事務所をいくつも回り何度も門前払いをくらったそうです。
そのうちにKruchのチャンピオンになり
「Kruchのチャンピオンです。」と自己紹介するようになりましたが「Kruchってなんですか?」と言われやっぱりK-1の知名度には及ばない大好きなK-1を復活させたいそう強く願い自分が芸能事務所や番組オーディションを受けてそれが功を奏するかわからないがめげずに
受け続けました。しばらくするとK-1が復活することとなり「あぁ、やっとこの時が来た。」「俺がやってきたことは無駄じゃなかったんだ。」と報われた気分になりました。
K-1デビュー戦は大雅選手にKO勝ちを収めました。続くワンデートーナメントを制しK-1初代55㎏級王者になり意識が変わったと語っていました。赤と金の髪型にピアスだと格闘家はチャラいと思われる。格闘技を野球やサッカーと同等なプロスポーツとみてもらいたいと思い赤髪とピアスをやめました。
メディアに出るのは格闘家の仕事と思っていて自分が目立ちたいからではなく格闘技を普及させたい一心ででした。
しかし世間からは「武尊は目立ちたがりやだ」
「芸能人と遊びたいんだろう」と言われるのが悲しかったそうです。さらに努力をして活躍を続け二階級制覇しどんどん有名になって行きました。武尊選手は完璧主義者で練習、私生活、食事も全て自分で管理しパワースポットへ行くなどのゲン担ぎもする完璧主義ゆえに
「全員に好かれないといけない」という感覚がありました。有名になると誹謗中傷が増えていき、それをエゴサしてしまいます。ツイッターのリプライ、インスタのコメント、DMを毎晩寝る前に数時間全て目を通すのが日課でした。
そんなことを続けているとだんだんとメンタルが崩れていき、そしてとうとうパニック障害を発症し「きっとどこに行っても自分を嫌っている人に会う」とそんな考えが心をよぎり、
再び精神科で薬を処方してもらうようになりました。薬でも症状は改善されず環境を一度リセットすることにしたそうです。
練習だけに集中できる環境がいいと思いアメリカのデンバーにあるドゥエイン・ラドウィック会長のジムを選びました。ラドウィック会長はK-1では魔裟斗選手、MMAでは五味選手とも対戦している二刀流のファイターです。
スパーリング初日はUFC王者TJ・ディラショーから4度のダウンを奪ったそうです。
凄すぎますよね〜
するとディラショーは話してくれなくなり
マススパーリングでもガチのフルスイング
終了のゴングがなっても攻撃してきました。
しかし、それでも共に練習を続けていると実力を認めてくれるようになり打ち解けるとディラショーの通うフィジカルトレーニングのジムに連れて行ってくれました。
そこでは世界中から注目される一流のプロアスリートたちが汗を流しており、日本ではアスリートとしてなかなか認められない武尊選手も
彼らからK-1の王者としてリスペクトしてもらったそうです。アメリカ滞在中はパニック障害がでることはありませんでした。
そして帰国前に送別会が開かれることになり
ジムの会長やその家族そして選手が参加し
「今日で武尊とはお別れだ」というとみんなが涙を流していました。アメリカの仲間たちは皆温かったそうです。「来年の3月に優勝して必ずベルトを持って帰ります」と約束して帰りました。パニック障害が完全に治ったわけじゃないが将来の約束できるようになったのはアメリカの成果でした。
帰国しK-1で前人未踏の三階級制覇を達成するが、那須川天心vs.フロイド・メイウェザー戦が決定するとアンチコメントが激増し毎日1000以上の誹謗中傷が届くようになりました。
「天心はメイウェザーと戦うのにお前は逃げてるだけ」と言われ心が悲鳴をあげた。
「言いたいことをぶちまけばどれだけ楽になれるか」しかし、K-1を背負っているという自負から決して反論はせず、またパニック障害の重い症状に悩まされました。
2020年に新型ウイルス蔓延下でのK’FESTA.3が開催され、それまでは格闘技ファンからの誹謗中傷だったのが、一般人からも非難されるようになりました。試合前に耳に違和感を覚え医者に行くとストレスからくる突発性難聴と診断されました。
そんな中でも試合に挑みなんとか勝つことができました。
2021年12月24日世紀の一戦が決定し記者会見が行われました。最初に那須川天心選手が武尊戦を希望したのが2015年。2020年まで表だった交渉はなかったと思われていました。
しかし2017年から武尊選手は人知れずエンタメ業界のトップ企業、国内王手企業のトップ
メディア関係者などに実現のため相談しに周り大手テレビ局の編集局長にも自らプレゼンにいきました。2018年の三階級制覇の後K-1オーナーの元へ行き直談判し「この試合が実現しなければ僕はもう格闘技辞めるつもりです。」
格闘家として練習や試合メディア出演に並行してタフな交渉に奔走しているときも「武尊は逃げている」、「あいつは臆病者だ」と非難され続けてきました。
しかし、皇治選手や大雅選手のようにK-1を離脱してRIZINへは行くとはせずお互いの王者の団体の王者として戦うことにこだわり続けてきたそうです。
6月に武尊選手vs.那須川天心選手の試合は過去最高に盛り上がると思うんでみてくださいね。
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まとめ
今回は武尊選手の生い立ちについてまとめてみました。武尊選手は何度も心が折れそうになりました。でも諦めずに努力、行動を起こした結果、武尊vs.那須川天心が決まったと思います。
気分がハイになったら殴っても殴られても自然と笑顔になると、攻撃的な戦闘スタイルが特徴です。那須川天心戦でもこのスタイルが出ると思います。楽しみですね〜
最後まで読んでくれてありがとうございます。
これからもどんどんおもしろいブログを書いていきますのでどうぞよろしくお願いします。
